2004年05月13日

槇原敬之「優しい歌が歌えない」

 結論から言うと自分はこの歌が嫌いです。嫌いと言うよりは好きになれないって感じですが。

 槇原敬之がこの種の内省的な歌を作り歌うのは、彼の辿ってきた経歴(あえてなんのことか明言はしませんが)を考えれば、十分に考えられるべきことだし、選択肢としては間違いではないし、必然であるとも言えると思います。でもやっぱり、自分としてはどうも、受け入れがたいです。
 槇原敬之は、稀有な才能を持ったポップミュージシャンです。それはその声もそうだし、特殊な感性もそうだし、何よりもそれらから産まれてくる曲の一つ一つを、聴き手にしっかりと見せつけ魅了するように作り上げることができるという点が、ポップスという一見薄っぺらい音楽を、何の考えもなしに薄っぺらく作れもできてしまう音楽を、深く深く深化させています。
 「太陽」以降、彼の楽曲には内省的な歌が増えました。今回の曲は、ただ内面描写に終始することなく、この季節の新緑の木々の葉というモチーフを使って厚みをもたらしているなど、やはりきっちりと詞の説得力を考えて作られていて、それは非常に評価できます。でも、やはりこの一連の内省的な歌から発せられるメッセージは、聴き手のために届けられる前に、まず、槇原自身のために紡ぎ出されているように感じてしまうのです。

 この曲のサビを抜き出してみます。『そこで僕は確かに見たんだ/総てを人のせいにして/だれでも平気で傷つけるような/もう一人の自分が/心の中で暴れながら/僕をぼろぼろにするのを』
 この部分のメロディーは、彼の歌声の高音の抜けを生かした、聴きがいのある盛り上がりになっています。しかし、詞のほうからは、ポップスの重要な要素である「ツカミ」、聴き手をぱっと惹きこむような言葉のインパクトが、感じられてきません。メッセージを曲に詰め込もうとするあまり、せっかくのサビが冗長な説明文のようになってしまっています。こうしたことから「聴き手よりも自分のための歌」という印象が生まれてきてしまうわけです。
 他にも、恋愛の歌とは違い具体的な他者の姿が立ち上がってこないで、一人の世界でしゃべっているように感じられてしまうことも問題だと思います。代わりに「太陽」や「桃」今回は「新緑」、あるいは「世界に一つだけの花」などと自然物との関係性はかなり強調されそれらによって「答え」や「救い」がもたらされるというパターンが多く、それは確かに自己の中だけで閉塞しているわけじゃないとは言えますが、しかし他者を描写することから視点を避けているようにも感じられてしまうわけで。
 ただ「世界に一つだけの花」なんてのは、しっかり「ツカミ」はあるし、別の歌い手ということもあって割合肩の力が抜けていたとは思います。 ポップスというジャンルの厳しさ、それは歌い手のエゴを殺さなければならないことです。意識的な主張をせず、それでも滲んできてしまう非・意識的なものがポップスシンガーの個性であるのだと思います。
 槇原は「太陽」以前にずっとそうした曲をきっちり作ってこれたのだし、「太陽」以後だって「君の名前を呼んだ後に」なんてすばらしい曲を作ったりもできているあたり、才能を涸らしてはいないです。だから、槇原には懺悔めいた言葉を紡ぐよりも、もっと昔どおりにポップス職人に徹してほしいと思うわけです。


posted by はじ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | J-POPレビュー男性(ま行) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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